#教育の話
先日、仕事で新人研修の引率をしたのですが、多くの方がAIを脅威に感じていることがわかりました。鋭い感性で安心しました。脅威に感じれば調べて対策をします。だから脅威を退けられます。脅威を感じなければ気づいたらやられています。そういうものです。
AIとは確率モデルです。物知りさんが知識をつなぎ合わせたうえで不足部分を確率的に推論してもっともらしいことをいうだけです。構造上正確性に欠けます。100%が求められる仕事に就けば、AIを便利ツールとして使っても、必ず正確性を確認しなければならず、マンパワーは不要とならないと、研修ではお伝えしました。
AIは確率的に推論するだけなので根っこの部分で信用できないのですが、もっとらしく推論できるのは学習しているからです。しかも、人間の脳を模した数理モデルで学習しています。だから優秀です。
AIのパクリ元である人間の脳も、詰め込めばもっともらしいことを吐き出せるようになります。経験に基づく勘所というやつです。
知識ではAIに敵わないのだから知識以外で勝負しろ、これからの人間に知識は不要だ、というのは、AIを理解しようとしない怠け者と知識を学ばないための言い訳を欲した怠け者が合流した怠け者連合の戯言です。
競うところは知識の量ではないのです。知識を学習のための道具であると位置づければ、人間は、必要な知識へのアクセス可能性と、学習効率においてAIを凌駕します。しかも、推論の裏を取ることまでできます。
AIの推論が優れているのは知識から学習しているからなんだぜ、AIの学習は人間の真似っ子なんだから人間の学習はまだまだAIに負けちゃいないぜ、しかもリアルで自由に動ける人間はAIよりも学習に必要な知識を集めやすいんだぜ、だから人間もAIに負けないように詰め込んでたくさんシナプス結合しようぜ、その上できちんと原典にあたって裏取りをしようぜ、というのが正解だと私は考えています。
かく言う私も大学院で修士号を取得するまで知識を軽視してきました。だから今から振り返ると稚拙な推論しかできませんでした。しかし、暗記の試験である司法試験で、大量の知識の暗記を強いられました。試験が終わると知識は忘却されるのですが、不合格を重ねていると、数年がかりで覚えて忘れた知識を、数週間とかからずに思い出せることに気づきました。覚えるよりも思い出すほうがずっと早いのだから、覚えることは無駄ではない、という気づきです。さらに、別の場面で似たような考え方があったような気がするという推論もできるようになりました。これこそが、学習が進んだ状態です。
その後、仕事でAI関係の研修講師をする中で、大学院時代の機械学習プログラミングとAIは本質的に同じものだと気づき、その際には、学習データでシステムの挙動を左右できるあるいは適切な学習データを用意しないとシステムは意図した挙動を示してくれないことを思い出し、AI恐るるに足らずとわかりました。
同時に、司法試験を経た私の推論能力が強化されたのは、大量の知識を暗記しては忘れた結果、学習が進んだからだと理解できました。
詰め込み教育は日本最大の美徳であると言っても過言ではありません。物知らぬ幼い私はこれを否定してしまいましたが、大学院で機械学習プログラミングを行い、司法試験に合格し、AI研修の講師としてお金をもらっている私は、詰め込み教育を推奨します。
詰め込み教育で用いられる学習データは厳選されたもので、AIがインターネット上から集めてくる有象無象とは質が異なります。AIのパクリ元である人間が、良質な学習データをもって学習すれば、AIに負けるはずがありません。その上、人間には、自ら学習データを選び、推論結果の裏取りをする知恵まであります。人工知能にオリジナルが負けるはずがない、と言えるためには、詰め込み教育が必要です。AI時代だからこそ詰め込み教育を再評価しようと強く主張します。