自己紹介
弁護士 柿沼 彰(東京弁護士会所属)
弁護士 柿沼 彰(東京弁護士会所属)
年々、専門分野はなんですかと聞かれることが増えています。そんなものはありません。自分の能力を伸ばすことにしか興味がない私にとって、専門は墓場です。専門を設けた瞬間に成長の可能性が狭まります。大道無門です。これからの弁護士は専門がないとだめだという商売が上手い弁護士がいますが、弁護士会には専門認定制度がないことを前提に、日弁連は、弁護士広告では専門という表示を控えることが望ましいという指針を出しています。
諸葛孔明を気取っているわけではないのですが、先生お願いします、と言われないとどうにもやる気が出ません。新人時代、先生と呼ばれることがくすぐったくて仕方なかったのですが、お世話になっている事務職員の方から、先生と呼ぶのはそれだけの期待を込めているからだ、先生と呼ばれることから逃げてはだめだと教えてもらいました。先生と呼んでもらわなくても全く問題ありませんが、先生と呼んでいただける仕事をしようとは心がけています。
もう長いこと法廷に立っていません。平日日中は企業のお仕事をしているので忙しいからです。生まれてこの方、職業としての弁護士になりたいと思ったことは一瞬もないので、法廷への憧れもありません。ただし、浦島太郎になってしまう怖さも感じています。
症例を求める医師のようなマインドで仕事をしている私には、事件数が多い分野はどうにも関心が湧きません。事件数が多いだけにインターネット集客が盛んな分野であり、私が手を出さなくても誰も困らないので需要と供給の外にいられます。
集客しない、裁判所にいかない、事件数が多い分野を扱わない、それなのにご飯を食べられることが自分でも不思議です。好きなことを仕事にできると幸せだと聞きますが、私の場合、やりたくないことはやらないを入り口に、楽しく暮らせるようになりました。
十年以上、毎年数百通を扱い続けています。しかも、一般の法務部員が対応しきれない難しいものの割合が高いです。英文契約書も扱いますが、頻度は少ないです。
私は元々マーケティングが専門で、上場企業の経営企画室で様々な事業を立ち上げてきましたから、リーガルチェックだけでなく、ロジ周りの整備も慣れています。これまでに数えきれないので数えることをやめた程度の新規事業立ち上げにかかわってきましたが、生き残っているものはほとんどありません。失敗のパターンとして最も多いのが、スタッフがコミットしてくれないことです。経営者だけが本気で、下は熱が冷めることを待ちながら流していることが多々あります。次に多いのが、経営者がキーパーソンの処遇を誤って離脱されてしまうことです。仕組みで失敗することはほぼありません。本当に本気になれば成功します。私が会社員時代に事業責任者となった新規事業はどれも無理矢理成功させてきました。もっとも、私が退社した後にほぼ全滅したようで、やはり新規事業とは人なのだなと思います。人以外のところは私がいればなんとかします。
在庫管理システムを経理システムに手動で流し込む業務フローの構築や、同意管理の合理化のためにユーザーの流入経路を合流させるロードマップ作りなどのガバナンス構築プロジェクトの支援をしています。もはやマーケティングでも法律でもないのですが、会社員時代にポスト・マージャー・インテグレーションに従事していたらできるようになっていました。
一度研修を行うと、次はどんなテーマで、という依頼が来るので、きっと研修が上手いのだと思います。他で学べる基本的な事項を網羅したうえで、他では絶対に学べない突っ込んだ話をすることを心がけています。
裁判沙汰に発展させずに穏便に処理しています。取り扱い実績はそれなりにあるのですが、裁判例を作れないことが私の業態の弱点です。やりたい仕事ではないのですが、企業の仕事をしていると避けられません。
お金の計算が好きなので、不動産活用や相続対策の仕事も好きです。不動産賃貸業の事業責任者をしていたことがあり、不動産の資格もいろいろ持っています。平日日中は企業の仕事で手一杯なのですが、不動産活用や相続対策の相談は、夜間や土日に対応した方が、依頼者にも喜んでいただけますので、私の業態にも合っています。
「学問は他流試合だ。外に出なければ学問は磨けない。」(大学時代、ゼミの恩師)
学外にも海外にも他分野にも積極的に出て行け、という意味の言葉です。私が自身の放浪癖となんでも手を出すことを肯定する材料になっています。
「顧問先は弁護士に頼めばなんでも解決してくれると信じて顧問料を払ってくれる。自力で解決できない仕事を受けるために弁護士仲間を大切にしろ。」(新人弁護士時代、ボス弁)
私の今の業態と弁護士会活動の原点です。
「あんたはなんでもできるから嫌になったらやめられる。それしかできない人間は石にかじりついてでも一所懸命になる。なんでもできることがあんたの弱点だ。」(新人弁護士時代、ボス弁)
私の器用貧乏の末路を言い当てられてしまいました。もっとも、反省はしておらず、私にふらっと出て行かれたくなければ私が喜ぶ難しい仕事を献上するのだ、とすら思っています。
「仕事が続かない人間は半年ももたない。2年目になってから辞めるのは飽きっぽい人間。2年目になると仕事のルーティーンがわかって楽になるのに、それを単調に感じて辞めてしまう。うちの会社はいつも新しいことをしているから飽きさせないよ。」(会社員時代の採用面接、役員)
1年半くらいで仕事を辞めたことが続いたため、自分の根性に不安を抱いていました。しかし、この言葉をかけていただき、安心しました。
「お前が判断しないんじゃ、なんのために雇ったのかわからない。判断するのがお前の仕事、責任を取るのが経営者の仕事だ。」(会社員時代、オーナー)
感情むき出しで怒鳴りつけながら、私の能力に賭けていると言ってもらえれば、意気に感じます。この言葉のおかげで、私は、吹っ切れることができました。同時に、私にはオーナーのように人の心を揺さぶる言葉を発する力はないとも思い知ってしまいました。
(更新が面倒くさいので、現職とは限りません)
東京弁護士会:常議員/入退会審査調査会/法曹養成センター副委員長/弁護士業務改革委員会遺言相続法律支援PT座長/人事委員会
日本弁護士連合会:代議員
(編集として企画段階から関与し、仕事にかかわりが深いものをピックアップしました)
解雇事由別 裁判例の要点からつかむ解雇事件の訴訟実務(第一法規)
裁判例からつかむ 従業員不祥事事件の相談実務(第一法規)
裁判例の要点からつかむ「権利濫用」の主張立証(第一法規)
依頼者の争続を防ぐためのケーススタディ遺言・相続の法律実務(ぎょうせい)
チビ:約1ミリマイルと非常にコンパクトです。
デブ:ダイエット歴は長く、リバウンド経験も豊富なベテランです。
ヒゲ:2017年から2018年にかけての年末年始に髭を剃らずにいたところ、ちょうど、闇金ウシジマくんの劇場版がテレビ放映されていて、伸ばすことにしました。顎髭だけだとやんちゃに見える気がして口髭も足しました。借りたお金を返さないような法で裁けぬ悪を裁ける人間になりたいのですが、それをしてしまうと仕事を失うので、人生はままなりません。
昭和:昭和54年生まれですが、早生まれなので53年組です。年明けすぐに生まれているので丸10年以上昭和を生きました。
独身:周囲から早く結婚しろと言われなくなって久しいです。令和の到来により平成ジャンプ(平成を未婚で通過した)なるグループに強制加入させられたそうです。
欲しいもの:家族。後輩同士が子供の話で盛り上がっていると自分は人生の落伍者であることを痛感します。
性格:真面目で我儘だと自己分析しています。悪いことはしませんが良いこともしません。かといって何もしないわけではなく、自由でいるための努力は惜しみません。しかし今よりも将来のことばかり考えているのでなかなか成果を出せません。
学歴・資格・肩書:色々集めた結果、複数あっても役に立たないものだと思い知りました。どこででも生きていける自信はありますが、身に付けた能力を余さず活かしたいので、反って窮屈な人生になっています。
趣味:ゲームとかアニメとか漫画とかお城巡りとか。ゴルフに割く時間が多いですが、上手くならないので面白いとは感じておらず、まだ趣味ではありません。多趣味なのはこだわりがないからです。没頭できる趣味と巡り合いたいとも思っています。
1979 千葉県で誕生
2460グラムの低出生体重児でした。生後すぐにカプセルに入れられたものの、壁を内側からガンガン蹴ってしまい直ぐに追い出されたそうです。他の赤ちゃんはぐったりしているのにお前だけ暴れていたと未だに親戚から笑われます。出産に際して母は20kg以上太ったのですが、その8分の1以下しか私に回らないとはどういうことか。
1991 船橋市立飯山満小学校卒業
千葉県名物の難読地名「はさま」です。新任教員が来る度に「いいやまみつる」と誤読したという挨拶をしていましたが、当地で生まれ育った小学生にとっては「はさま」以外には読めないので何が面白いのかわかりませんでした。
小学校5年生時に、クラス全員参加のジャンケンで負けた結果、応援団に入ったのですが、堂々と学校中に響き渡る大声を出せることに快感を覚え、小学校6年生時には立候補して応援団長になりました。人生で唯一積極的に目立つことをした経験です。
なお、小学校時代に2回、クラス全員40人以上参加のジャンケンで負け抜けてしまい、自分はジャンケンが弱いと確信しました。以降は不人気な仕事を率先して引き受けることで、ジャンケンの敗北を回避しつつ、いつも仕事を押し付けると悪いから次回はジャンケンに参加しなくて良い権利を確保するようになりました。情けは人の為ならず、私の厚意はいつも打算に基づいています。
1997 市川高等学校卒業
中高一貫の当時は男子校でした。共学に通っていればJKと触れ合えたのにと後悔したこともありますが、どうせ共学に行っていても陰キャぶりを発揮して女子にキモがられていた確信があるので、どうでも良いと諦観するに至りました。
ブラスバンド部でパーカッションをしていたのですが、両手両足を別々に動かして器用にドラムを叩けていたことが不思議でなりません。今では絶対に無理だと思います。
文化祭で女装コンテストが開催された際、周囲の背が低い連中は全員声をかけられており、162cmの私も内心で声掛けを待っていたのですが、スルーされてしまいました。人生で女装ができる機会などそうそうないので心残りです。
2001 中央大学総合政策学部卒業
暗黒時代に突入しました。卒業時には優秀論文で表彰されています。
2003 東京大学大学院経済学研究科企業市場専攻修士課程修了
修了直前に人生の方向性の間違いに気付きました。
2009 中央大学法科大学院修了
精神的に落ち込んでおりダラダラと過ごしました。学費半額免除の特待生でした。
2009-2010 神戸修習
暗黒時代を脱しました。私は模範的な修習生でしたので、先輩たちから修習専念義務とは遊び以外はしてはいけないという意味だと教えられたことを忠実に守っていました。
2010-2011 兵庫県内法律事務所にて弁護士登録
修習中からお世話になっていた事務所にそのまま就職しました。すぐに転職してしまったのですが、当時は理解できなかったボス弁の教えを後から理解できると、自分にも力がついたと実感できるだけでなく、ボス弁から離れた後も自分が正しく成長できていることの確認ができて安心できます。何事もスタートが肝心というのは、その後目指すべきイメージを作る上で、本物を見ておくことが有益だからなのだと思います。何事も相性ですし、反面教師のイメージを作り上げることもまた有益でしょう。そのため、早期独立に問題はないと考えますが、何らイメージを抱けないまま一人歩きをしなければならない即独は怖いと思ってしまいます。
2011-2013 国会議員事務所
何をしていたのかは聞かないで下さい。経済も法律も活かせるのではないかという夢も希望もあって議員秘書になったのです。第二次暗黒時代でした。
2013-2015 上場持株会社経営企画室
私にとって遅れてきた青春時代でした。
2015- 柿沼彰法律事務所開設
事務員も雇わず完全に一人の特定受託事業者(フリーランス)なのですが事務所です。固定経費を抑えているので売上に追われることもなくストレスフリーの日々を満喫しています。独身貴族をこじらせて日々駄目になっていく衰退期と言えるかも知れませんが、自分なりの業態をのんびりと組み立てている楽しさはあります。