私は大学に入るまで自主的に勉強をしたことがありません。小学校から高校まで、宿題は授業中の内職で終わらせていたので、家で宿題をしたこともほとんどありません。
大学に入ってからは他人よりもずっと沢山の努力をするようになりましたが、事後的に評価すると、その方向を間違え続けています。
私の人生は、高校時代まではそこそこ楽しいものでしたが、大学入学から司法試験合格までは長い暗黒時代となりました。暗黒時代に陥った原因は高校時代の進路選択の誤りにあり、その遠因は小学校時代にあるので、そこまで遡って話をします。
小学5年生時にむかつく転校生がやってきました。俺は偏差値いくつだからお前たちより偉いと平気で口に出す馬鹿でした。私は見るからに頭の悪そうなクソガキに偉そうにされたことが我慢できず、しかし偏差値が何なのか知らずに反論できず、親に偏差値とは何か、自分の偏差値はいくつかを聞きました。
するとどうでしょう。進学塾の入塾試験を受けさせられ、小学6年生からの受験開始では遅れを取っているからと家庭教師をつけられたではありませんか。よくわからないうちに千葉県内では名の通った中高一貫の男子校、市川学園に進学することになりました。毎週家庭教師から出される宿題だけはこなしましたが、それ以外に勉強した記憶はありません。それでもなんとかなるように学習スケジュールを組むのですから、流石はプロの家庭教師でした。
小学生時代は女子なんて鬱陶しいだけですから男子校に行きたいという思いもあっての中学進学でした。共学に行くべきだったという思いと、もてない言い訳ができたという後ろ向きな正当化根拠とが今でもせめぎ合っていますが、それでも、遊んでばかりの6年間はそれなりに楽しいものでした。それなりに、というのは、そこに甘酸っぱい青春の思い出が欠けているからです。
現在の市川学園は男女共学の進学校になったらしいですが、当時は市川楽園を自称する頭が悪い学校でした。
教員は、学校として認可される最低授業数の中で体育や家庭科に最大限のコマ数を振っている、これ以上ゆるい学校は制度上存在しないと誇らしげに語っていました。あるとき深刻な顔で、残念な報告があります、どこかの学校に私立校における授業料最安の座を奪われました、と伝えられたこともあります。授業料は親が払ってくれているので意識していませんでしたが、道理で設備がボロいわけだと納得したものです。しかし、私も含めて学生の多くは親がお金持ちでした。当時の千葉県で私立の中学に進学するのですから、お金持ちで当然です。
そんな環境の中で、学生たちは、自分たちは遊んでばかりいるのにそれなりの進学実績を叩き出す効率の良い集団だ、トップ進学校のガリ勉共よりもずっと面白おかしい学生生活を満喫しているので本当に頭が良いのは自分たちだ、という自負を抱いていました。特に中学からの進学組にその傾向が顕著でした。中学の定員は300人、高校からの編入が300人という環境で、高校からの外部編入者から、自分たちは中学時代に勉強ができるキャラだったのに、高校ではそれを失ってしまった、内部進学者はトップ層も含めて皆が何かしらのオタクであったり部活に熱心だったりキャラ立ちしていて濃い連中ばかりだと言われたことがあります。今振り返ると、癖の強い動物ばかりを集めた動物園のような環境でした。
中学時代の成績は300人中110番くらいでしたが、高校入学時には600人中180番くらい、その後も徐々に上がっていき卒業時には80番くらいになっていました。学校で集団受験させられた模試では学内30番くらいで、出題範囲が広くなればなるほど順位が上がっていきました。高3から通い始めた予備校では、東大理系コース授業料半額免除特待生として、模試の度に廊下に名前が張り出されていました。満遍なく勉強をしていないためか、得手不得手はなく、理系科目も文系科目も全て偏差値60を超えていたのですが、当時は理系の方が就職に有利という説に乗って理系コースでした。
私は、全く勉強していないのに年々成績が上がっていく理由を、誰よりも勉強をしていないからだと分析していました。頑張って勉強をしていても、才能の限界に突き当たり、どこかで挫折してしまうのが世の常です。その結果、勉強によって支えられていた学力がどこかで維持できなくなり、神童たちは凡人に転落していきます。しかし私は一切の勉強を排除して徒手空拳でテストを戦い抜いています。周囲が自滅していく中で、私にだけは自滅要素がないのです。花の慶次に出てくる「虎は何故強いと思う?もともと強いからよ」という言葉が自分のことを言っているように思えていました。一切勉強をしない自分の学力がどこまで通用するのか試してみたいということを言い訳に、ひたすら易きに流れ、ゲームばかりしていました。それでも何とかなってしまう自分の才能に自信があり、自分が将来成功しないはずがないという根拠のない確信を抱いていました。市川楽園に染まりすぎたのだと思います。
大学受験も、どの学部に進学するために受験勉強をするという発想はなく、カタログショッピングのように現有偏差値から学部を選びましたが、私立ならば、大学を問わず、医学部を除くほぼ全ての学部に進学可能でした。やりたいこともなかったので、理系も文系もなんでもできそうな中央大学総合政策学部に進学しました。当時は新設学部の偏差値バブルで、偏差値70くらい、早慶のほとんどの学部よりも上という位置でした。東京で一人暮らしをしたいので、千葉からは通えない八王子というのは都合良いという思いもありました。
大学に入るまではウキウキでした。しかし、直ぐに絶望しました。中央大学は学生のレベルが低いのです。能力的な高低の話ではなく、ぎらついた野心の持ち主がほとんどいないことが直ぐにわかりました。私にとっては早慶などほとんどの学部に偏差値で勝利できるのですから眼中になく、東大の伝統的価値観に対して新設学部として新しい価値観で戦いを挑むべき学部だったのですが、そうではなかったのです。
当時の合格者分析を見ると、中央大学総合政策学部に落ちて早稲田大学法学部に受かったという受験生も相当数存在していました。しかし、W合格者はほぼ100%が早稲田大学法学部を選びます。周囲には中央大学総合政策学部に進学したかったものはほとんどおらず、早慶に落ちただけの中央らしい負け犬ばかりでした。高校時代の友人たちは東大早慶に行きましたから、私はその中での負け組になってしまっていました。
しかも、私の在学中に、時の学部長が弱気になって、合格点を下げて大量の合格者を出してしまったことがありました。唯一の取り柄である偏差値は急落するわ教室の収容人数は足りないわの大騒ぎで、落ちた偏差値が元に戻ることはありませんでした。
ブランドのしっかりしている慶応大学の偏差値は67だとしましょう。これが62になれば狙い目だと受験生が殺到し、翌年は偏差値70になって、自然に67に収斂していきます。しかし中央大学は偏差値60なのですから、総合政策学部の偏差値が70から62になれば、やはり中央だったかメッキが剥げたと回復することはないのです。所詮、中央大学はたかが中央大学に過ぎないのです。
それでも私のマインドセットは東大と覇を競っていた時代の中央大学法学部出身者に近いと考えています。そのためか、中央の大先輩たちにいつもよくしていただいています。たかが中央、されど中央法科、後輩にはその思いを忘れずにいただきたいと語る私は総合政策学部出身。
日本社会において学歴は非常に重要です。学歴が一生を左右するということは全くありませんが、新卒で就職する際には学歴しか判断要素がないのですから、学歴が重視されます。高校時代の意識の低さ、調査不足によって学歴社会で落伍者となった私は、子供の発想で大学院に進学することにしました。大学院で学位を得れば幹部候補として企業に入っていけると考えたのです。そのために、厳しいことで有名な物理学者のゼミに入りました。教授は厳しさから学生から敬遠されていましたが、私にとってはそれが心地よく、研究に没頭する大学生活でした。私にとって、人生で初めて自主的に学んだ時期でした。その甲斐あって、卒業時には優秀論文で表彰を受けています。また、学部付属の大学院に進めば授業料全額免除の権利も得ていました。私の才能は、本気を出せば中央大学でならばどんな分野でもトップを取れるといった程度なのだと思います。
選んだ研究分野は、民間企業で出世したいから経営学、ゲーム的に物をどうやって売るのか考えたいからマーケティング、中央大学に絶望したからブランディング、でした。ゼミの教授は物理学者なのですが、懐が広く、数理的にマーケティングを学ぶことを後押ししてくれました。数理モデルを組んでプログラムを書いてコンピュータシミュレーションを行う、高校時代は理系コースだった私らしい取り組みです。
学部の就職支援の一環として、企業の人事担当者を招いてのゼミの発表会があり、私も学部からの非公式の要請でサクラとして参加しました。当然のように私を名指しの求人が来て、当然のようにお断りしています。当時は誇らしい気持ちだけでしたが、今になって振り返ると、真摯に採用活動を行ってくれた企業に対して大変失礼であり、サクラを起用した学部は猛省すべきです。
ともあれ、私の進学動機は社会に認められたいという不純なものであったため、誰からも馬鹿にされないという一心から、最も格式が高い東京大学大学院経済学研究科企業市場専攻に進むことにしました。
当時、学歴ロンダリングという言葉が流行り始めていました。かつて大学院は、研究者を志望する学生の中で、優秀な一部のみが進学できる場所でした。しかし、大学院重点化という国の方針によって、国立大学の大学院予算が多くつけられ、国立大学に合格することができなかった学生までも国立大学の大学院に入学できてしまう状況となっていたのです。そして、自分の大学よりも偏差値が高い大学の大学院に入学することを学歴ロンダリングと呼ぶようになっていたのでした。
私は見栄っ張りなので、学歴ロンダリングのそしりを免れる方法を考えました。入試の内容を調べに調べ、当時、東大大学院経済学研究科は、内部受験者数60人のうち合格者数30人、外部受験者数200人のうち合格者数30人であったことから進学先に選びました。大学院の下に学部があり、学部生だからといって望めば進学できるわけではないというのが、学歴ロンダリングと呼ばれないための条件だと考えたのです。実際に、当時の東大経済では学部生の間で大学院合格祝のパーティーが開かれている状況で、私のような外部からの入学者は内部進学希望者を蹴落として割り入った実力者として扱ってもらえました。
大学院には名だたる企業の役職者が学びにきていました。やはりここに入って正解だ、と思ったのは不正解でした。彼らは学位を取ると仕事を辞めて、大学の非常勤講師などからキャリアをリスタートしていました。企業と合同研究をすることもありましたが、企業の内部にいる研究職のはずの人間は、ただデータを運んでくるだけで、研究は大学に丸投げでした。大学院生である私が、名だたる企業の研究職の人間に研究内容を理解するにあたっての導入講義を担当したこともあります。それはつまり、日本企業の中には大学院生以下の文系研究職しかいなことを意味します。日本企業に文系大学院修了者の居場所はないのです。私も、周囲から、立派な研究者になるためには、ということばかり言われ、これはまずい、また失敗してしまったと悩んでいました。
また、当時、私生活でもトラブルがあり、インターネットで検索して、素人の意見に惑わされてまたインターネットで検索して、結局、初動で解決できなかったトラブルは慢性化して今に至ります。
トラブルに夢中になってしまったため良い修士論文は書けなかったものの、なんとか学位を得ることはできました。東大で経済学修士号を得るのは大変で、1学年60人のうち38人しか学位を得られませんでした。38人の中には就学延長をした3年生もいますから、2年間で修士号を得られるのは半数程度でした。東大生の進学希望者のうち半数しか進学できない母集団が司法試験受験生と同等以上にガチに励んだ中での半数というのは相当なものであり、私は、経済学修士号には司法試験合格と変わらない価値があると考えています。しかし、私は弁護士として期待されることはあっても、経済学修士として期待されることはなく、それが世間の評価です。
日本は大卒新卒採用時のみ学歴社会ですが、それを超えて文系大学院を修了してしまうと排斥される低学歴社会なのだとつくづく感じます。だからこそ、高校時代の大学選びが重要なのです。社会に出たいと思いながら大学院に入院した時点で日本社会からの落伍者です。私は所詮中央という落伍者から脱しようともがき、更に失敗を重ねる結果となったのでした。