弁護士に想定される働き方は、ボス弁の下で働くイソ弁、パートナー昇格あるいは独立による経営者弁護士、公務員(国会議員公設秘書を含む)、会社員(企業内弁護士)の4通りとされています。私はこの4通りの働き方の全てを経験しています。そのため、一番楽しい働き方は何だったかという質問を受けることがあるのですが、ダントツで会社員です。
しかし、会社員が嫌になって司法試験の勉強を始めたという弁護士は多数存在しています。また、企業内弁護士としてキャリアをスタートしたものの、やはり会社員が嫌で法律事務所に転職してイソ弁からやり直す若手も多数います。色々と話していると、彼らと私との最大の違いは裁量の大きさだとわかりました。
私が勤務していたのは、グループの資本金が合計40億円くらい、連結売上高200億円くらいの中堅上場企業です。純粋持株会社で、子会社にIT、金融、自動車関連があり、新たに不動産経営に乗り出したところでした。
私は、イソ弁、国会議員秘書を経由して、会社員になりました。弁護士としてド新人ではないこと、国会議員秘書としてストレス耐性を身に着けているだろうこと、から即戦力として期待されての中途採用でした。
所属は法務ではなく経営企画でしたが、グループの法務も統括していました。しかし、あまり法務に忙しそうにしていると、経営層から、弁護士でもできる仕事は顧問弁護士を使って良いから、私にしか出来ない仕事を優先しろと言われていました。
戦力として期待されての中途採用であること、経営企画という花形部署の所属であったこと、私の目と手と声が社内全体に届く会社規模であったこと、が、他の会社員を経験した弁護士と私との決定的な差でした。
良いことばかりではありませんでした。私は、自分には事業会社での勤務経験がなく、世間知らずだという思い込みがあったので、経営に関与させてくれるならば給与は拘らないと希望して入社しています。今にして思えば、弁護士と国会議員秘書という世の中の最もディープな世界を経験しているのですから世間知らずであるわけがありません。だからこそ即戦力と期待されたのですが、自分は特殊なキャリアを歩いているから社会人としての基本に欠けているはずだという思い込みがあったのです。
会社はきちんと約束を守ってくれました。入社直後から私は様々な判断について意見を求められました。そのため、すぐに力を認めてもらうことができ、グループ企業の役員が重大な決断をする際には、まずは内々に私の下に相談に来るという意思決定フローが出来上がりました。
しかし、経済的な待遇や労働環境には拘らないという約束までもが守られてしまいました。定時退社しても有給を使っても文句を言われない社風で、忘年会は定時前に開始して定時に中締めをして自由解散するなど、決してブラック企業ではなかったのですが、私には私にしかできない仕事が多数あったため、土日を休みたい一心で、毎日終電まで働き、時には終電に間に合わずに会社近くの漫画喫茶に泊まっていました。給与も、仕事量や内容から考えると信じられないくらい低く、普通の上場企業サラリーマンと同水準でした。正直、入社時に物質面の待遇を度外視して精神的待遇のみを求めてしまったことを後悔していました。私はやはり世間知らずだったのだと思います。
それでも、精神的には、私が入社時に求めていたもの以上を会社は提供してくれたので、とても充実していました。そのため、毎月100時間を優に超える残業を2年続けていても私は過労死しませんでした。当時は35歳前後で若かったお陰だと思います。今ならば確実に死にます。
得たのは精神的な満足感だけではありません。様々な経験とスキルと自信を身につけることができました。
会社は、私が入社する直前に、稼ぎ頭だった事業部門を高値で売却しており、目立った収益源がないものの、現金だけは余っているという状態でした。そして、安定した収益源が欲しいと、不動産経営に乗り出したところでした。
IT企業なので不動産に詳しい人材がおらず、なんでもできそうな私が、0から不動産経営を学んで、事業部門を担当することになりました。本社ビルを含めて、総額50億円程度を所有しており、その全ての管理を私に任せるのですから、器の大きな会社でした。私は、賃貸管理以前に、管理会社の選定から任されているので、業者と癒着しての横領も可能な立場です。信用してもらえたのは弁護士が悪さをするはずがないからだと思います。私も私で、会社からお給料をもらいながら未経験の分野を基礎から学べることを楽しんでいました。その甲斐あって、今では立派な不動産に矢鱈と詳しい人です。
私は入社当初から広範な裁量を与えられました。ところが、それに萎縮してしまい、評論家のように法的な事実整理だけを行い、ご判断下さいという仕事をしてしまいました。するとオーナーから雷を落とされ、お前が判断しないのでは雇っている意味がない、判断するのがお前の仕事、責任を取るのが経営者の仕事だと怒鳴りつけてもらいました。オーナーが私を見込んで社運を賭けた判断を委ねてくれて、その思いを怒鳴りつけてまで伝えてくれたならば、意気に感じます。私はそれで吹っ切れて、はっきりと自分の意見を出すようになりました。自分の意見というのは、わからなければわからないと応えることです。わからない場合には、これとこれで悩んでいるが、どちらもメリットデメリットがあると伝えます。そんな整理をしていると、どちらでも良いとわかり、趣味で選ぶならばこっち、という意見も添えられるようになります。
法律家として自信を身につけるきっかけとなったのは子会社のスクイーズアウトでした。税務上の理由から子会社を完全子会社化することになったのですが、あやしいコンサルタントたちがインターネット上で手続に要するとしている期間を待っては会計年度が変わってしまいます。企業法務を専門としているという触れ込みの顧問弁護士に相談しても、インターネット上で得られるものと同様の回答しか得られません。おそらくネットで調べて回答しているのだと思います。そこで私は、会社法とにらめっこし、株主総会招集通知の印刷会社や官報公告の会社にもスケジュールを確認し、一人でスクイーズアウトを実施しました。株主総会での想定問答集だけでなく株主からの電話問い合わせへの対応フローも作成しています。その結果、私が算出した理論上の最短期間で、会計年度をまたぐことなく手続を終えることが出来ました。私は、専門家に相談している暇があるならば私が自分で調べた方が正確な情報を得られるし、その後の実行まで私が行えば机上の計算通りの結果を得られることを学びました。人に頼むくらいならば私が一人何役もこなした方が安全かつ効率的であり、その結果が毎月100時間を優に超える残業でした。
上場期間が長いのにベンチャー気質が抜けないやんちゃな会社だったので、大学院経済学研究科時代からやりたかったM&Aについても多数の実務経験を積むことができました。検討だけで終わったものも含めると20件近くのM&Aに関わっています。その中には、役員が乗り気だったものを、私が将来性がないと判断して止めたものもあります。許認可事業承継のための法的スキームの考案だけならば会社法務を専門としている弁護士ならば私でなくともできると思います。しかし、自社の既存事業とのシナジーを検討したり、買収対象におけるキーパーソンを探って根回しをしたり、潜在的な労働問題を回避するための策を巡らせたりというのは、私以外の弁護士は経験したことがないでしょう。さらに、買ってきた事業部門に常駐して、現場の不満を汲み上げながら、他の事業部門と業務フローを統合していく経験もしています。私は大学院でマーケティングを専攻し、国会議員秘書を経験した弁護士なのです。
特殊な経験の極めつけは業績好調の中での上場廃止です。創業オーナーの強い意向で上場廃止することになったのですが、本当に大変な手続きでした。グループ会社の役員にも知らせないままに手続きを進行させ、上場廃止予定を知っている私を含めたたった3人は毎日の人との接触を証券取引所に報告し、進行中のM&A案件の相手方にも情報を流せないため結果的に騙し討のような交渉をせざるをえませんでした。TOB価格も、証券会社の紹介で依頼した弁護士が、絶対に問題になると言い切れる低価格を設定しようとしたため、過去のTOB事例をまとめたレポートを作成し、適正な水準まで釣り上げました。いつもは頼りになる同僚も頼れないし味方であるはずの弁護士が最大の敵というメチャクチャな状況で、本当に大変でした。
毎日が目まぐるしく、次々と成長の実感を得られた会社員時代は、私の青春時代でした。中高を緩い校風の男子校で過ごし、大学から司法試験合格まで暗黒時代を迎え、司法試験合格で運気が上向いたものの、国会議員秘書時代に地獄を経験し、ようやく楽しい日々迎えることができたのです。
私が会社を退職したのは、専ら世間体からでした。
上場廃止以前から、私が弁護士資格を持つことを知った取引先から、今は弁護士も大変ですからね、と失礼なことを言われることがありました。その度に怒りを抑えることに必死でしたが、それでも、上場企業の中枢にいることは私の誇りでした。物知らぬ部外者から失礼なことを言われようが、他の弁護士では一生経験出来ないような特殊な経験を毎日積み重ねている自負がありました。
しかし、これから上場を目指している会社ならばともかく、上場廃止した会社に居続けることは出来ませんでした。世間体だけでなく、仕事の内容についても、上場廃止したことにより進行中の大型買収案件が全て消滅してしまいました。会社を売る側にとっては、買収に応じることで従業員が上場企業グループの一員になれるということが社内への説得材料となっていたのです。
オーナーにとっては上場し続けることの窮屈があったのだと思います。しかし、私を含む従業員にとっては、未来ある上場企業で働いていることが誇りでした。そのため、多くの同僚が会社を去りました。私も、上場廃止後のグループ再編を最後の仕事として退職しました。
もし上場を継続していれば私は今も勤務し続けていたと思います。その場合には体を壊していないか心配ですが、どこかで働き方を軟着陸していたことでしょう。私の負担を分散させるために後輩弁護士を鍛えていたかも知れません。金銭的な待遇も、どこかで会社と交渉することを覚えて改善されていたと思います。
かくして私の遅い青春時代は、勤務先の自主的な上場廃止という世にも珍しく困難な手続とともに終わりを迎えたのでした。本当に毎日が仕事に精一杯で、それが楽しいと感じられる幸せな日々でした。