私はチビデブですがそこにコンプレックスは感じていません。もちろん、背が高くシュッとしていた方が良かったとは思いますが、それよりも、自分の頭が悪いことにコンプレックスを感じています。
私が、自分の頭の悪さがコンプレックスだと言うと、決まって、嫌みかと言われます。しかし、私が求める頭の良さは勉強ができることではありません。私は小さなころから、準備しての作文朗読は問題なくこなせましたが、とっさに上手い言葉が出てこない口下手でした。私は人見知りではないのですが、酒が入らないと会話が続かないつまらない人間ですし、理不尽な言いがかりを受けてもその場で反論できず、怒りを持ち帰って、後になってから周囲に愚痴ることしかできません。しかし、口のうまい友人たちは、私の家に遊びに来れば、器用に私の親に挨拶して世間話までし、学校で悪さをして先生に注意されても、よくよく考えると不合理な言い訳でその場を切り抜けていました。
私は背が低く運動が下手、ただし頑丈で殴り合いならそう簡単には負けへんで、という、生まれてくる時代を間違えた原始的骨格の持ち主なので、端からスポーツ選手に憧れることはありませんでした。勉強は、大学に入学するまで一切したことがないのですが、それでも成績上位をキープしてきたので、自分は頭を使って食べていくと小さなころから決めていました。頭で食べていかなければならない私が、トークが苦手ならとっさの反論もできないというのは致命的で、それがコンプレックスでした。
英語も苦手な私は、大学時代、高名な法学者と留学について話す機会に恵まれました。その法学者は、日本人に英語脳などあるわけがない、いちいち日本語を英語に翻訳しているから会話のテンポについていけないというならば、訓練して翻訳速度を上げれば良い、と話していました。
実に頭が悪い解決策であり、この法学者は私と同類なのだと理解して共感しました。私は言葉を話せるようになるのが遅く、周囲が障がいを心配していたら、突然ペラペラとしゃべりだしたそうです。英語教師をしている米国人の友人からも、私が話せないのは綺麗な文法に拘る見栄っ張りだからだと指摘されています。
見栄っ張り上等、私は、必要に迫られれば、自らに翻訳速度向上訓練を施し、綺麗な英語を話せるようになるでしょう。しかし、コスパが悪い。私は、今でも、英文契約書の翻訳ならば、法律を知っている分、ネイティブを凌駕しています。仕事に困らないならば英語がペラペラ話せなくとも一向に構わん。
この法学者との会話から、私は、コンプレックスを克服するための方法論を得ました。とっさの応答が苦手ならば、会話の中で生じうるあらゆるパターンを想定して備えておけば良いのです。常に想定問答集を参照しながら会話すれば間違いはありません。あらゆるパターンに対応できる分厚い想定問答集を頭の中に検索可能な状態で用意する。時間はかかりますが、生き残るためには成し遂げなければなりません。
そして長い修練の果てに、私はコンプレックスを克服しました。今では、誰もが想定外の事態になると私が頼られるようになり、私はトラブルシューターとして生計を立てています。
コンプレックスを克服すると人間は強くなれます。今の私は、口がうまい人間を見ると、泳がせて気持ちよくしゃべらせます。私は、頭が良い人間が使う騙しのテクニックも多数パターンを記憶したので、にこにこと落ち着きながら、余裕をもって矛盾点を整理できます。そして、周囲が説得されてしまったところで、矛盾点を指摘して一気に寄り切ります。私に寄り切られた相手は、ただ言い負かされただけでなく、気持ちよく泳いでしまった分、その場にいた全員からの信用を失います。
最近、私の新たな弱点が発覚しました。いきなり乾杯や締めの挨拶などを振られても、上手く話せないのです。年齢的にそのような機会が増えていくと思われるので、今は周囲の挨拶を観察して記憶しようとしています。おそらく数年後には、私は挨拶が上手い人に仕上がっていると思います。コンプレックスはそれを克服する方法論を身に着ければ武器にできると考えています。大学時代にそのことに気づけて、本当に幸運でした。