#教育の話
先日、ある上場企業の法務部長と会食していた際に「若い子は仕事が丁寧でいかん。もっと手の抜き方を覚えろと言っているが、なかなかできない。」という話になりました。同席していた方が驚いていたので、私から「例えば全部で30条ある契約書でも、どんな類型の取引だとわかっていれば優先的に確認すべき条項は5つ程度になる。その5つを確認して安心したならば後は流し読みで良い。逆に、その5つの出来が悪ければ、これはいかんと時間をかけて全体大改造を行うのだ。」と説明すると、法務部長もうんうんと頷かれていました。
問題は、どうやってそれを若い子に身に着けてもらえるか、ということなのですが、色々と話した後に、私と法務部長とで頭を抱えてその話はおしまいです。
気を取り直して、AIの話をしました。AI契約書添削はそれだけだと使い物にならないが、アシスタント代わりに使うならば期待できるよね、というお話です。色々とお話をして至った結論は、AIの登場によって、優秀な人材はAIを使いこなして生産性を向上させる、そうでない人材はAIに駆逐される、というものでした。
AIにできることは限られていて、人間を代替できる範囲も限られています。しかし、巷で言われているように、AIにできないことができる人間が生き残る、というわけでは決してありません。その部分とAIがなした部分をどうやって接合するのか、そもそもAIは正確性に欠くので事後的なチェックを誰が行うのか、という問題が残るからです。
生き残るのは一人で全部できる人間です。仕事の全体構造の中で、この部分は一旦AIに任せても事後チェックにそれほど手間取らない、という判断ができる人間だけが生き残ります。何をAIに任せるのかが明確であれば、AIへの指示が明確になり、AIから使い勝手の良い出力を引き出せます。具体例はプログラミングです。AIにどんなことができるプログラムを書いてといっても、クソのようなソースコードが吐き出されるだけです。しかし、AIに一切の裁量を与えない勢いで部分部分を切り出して指示していけば、大いに捗ります。AIさえあればプログラマーは要らないというのは幻想で、優秀なプログラマーがAIを使えば有象無象は要らなくなるというのが現実です。それしかできない人間は往々にしてそれすらできず、何でもできる人間は何でもできることが世の常であり、それしかできない人間よりもAIの方がずっと優れているので、それしかできない人間こそ、AIに代替されるのです。
手の抜き方の話に戻りましょう。丁寧な仕事で1時間かけて100点を目指すことは、1時間あるならば正解です。しかし、仕事はナマモノです。常に1時間を用意できるとは限りません。そこで、仕事を圧縮できれば有事への備えになると私達は言っています。1時間あるのに仕事を圧縮し、残り時間を遊んでいることも不正解なのです。もっとも、眼の前の仕事を85点を確保しながら15分で終わらせて、残り45分で他の仕事を拾いに行き、4倍の経験を積み続ければ、AIに負けない何でもできる人間がぐっと近づきます。2通仕上げて残りの30分を周囲とのコミュニケーションに割くことも優れた方法です。これが、手の抜き方を知っている人間ほど出世するという絡繰りの正体です。
圧縮技術を身につけるためには、残り時間15分で1時間の仕事が降ってくるシチュエーションが必要です。技術論でもありますが、感覚論でもあるからです。私達は限界まで残業している状況下でそのシチュエーションに遭遇しました。残業がブラックだと言うならば、定時まで残り15分で1時間の仕事ということでも構いません。しかし、残り15分で1時間の仕事を与えれば、できない仕事を与えられたというパワハラになります。私もパワハラが怖いので、仮に私が法務部長で、定時まで残り15分で1時間の仕事が発生したならば、手の空いている部下に回すことはせずに、自分が15分多く残業して処理するでしょう。おそらく多くの管理職がそうしている時代です。私も法務部長も頭を抱えてしまったのは、解決策を見いだせなかったからです。
私達は先輩方に鍛えていただけましたが、私達は後輩を鍛えることを禁じられています。だから新しい教え方を考えろと求められているのでしょうが、それは、昔の教え方を否定した人たちと、それに賛同した人たちが考えるべきです。とはいえ、新戦力が育たないと私達は楽ができないので、なんとかしなければと考えています。