#教育の話
どういう因果か、弁護士会やその中の会派で本を書く人になってしまいました。
自分で原稿を書くのは楽です。自分の頭の中を整理するだけで原稿になります。問題は編集です。ぶっちゃけ、編集するくらいなら全部自分で書いた方が仕事が早ければ質も担保されるのですが、若手に執筆の機会を与えようと頑張っています。
自分の頭の中を整理して本にするというのは当たり前のことだと思うのですが、若手の原稿を見ているとそうではないようです。
私も本を書くための調べ物はしますが、それは、自分の頭の中を体系的に吐き出すための参考としてです。すでに世にある本と内容が被るならば私が本を書く意味は失われるので、他人の本を読んで、先を越されたと思うことはあっても、執筆の手がかりとすることは決してありません。そもそも、弁護士に求められるのは自身の経験の言語化です。世の中には完全に同一の事件は存在しないので、自身の経験をロジックに当てはめるだけでオリジナルの原稿になります。弁護士はロジックに則って事件処理をしているはずなので、経験の言語化も容易です。
しかし、若い弁護士は、実務経験に乏しく、経験の言語化だけでは原稿になりません。それは仕方がないのですが、若者には若者らしい自由な発想が求められているというのに、若い弁護士ほど大怪我をしないために他人を真似ようとする傾向にあります。皆真面目なので、著作権侵害には注意していますし、出典も明示しますが、ぼくこんなにがんばったよ、とばかりに参考文献を並べ立てることに価値を見出しているようです。コピペ合戦に挑むが如しです。
思えばこれは当然で、私の学生時代も、多くの学生、院生は、教授陣から、論文は何十頁以上などのレギュレーションを課されていました。どうせオリジナルなど出てこないのだから、せめて頁数を稼ぐ副産物として多くの論文に能動的に触れて学べということだそうです。そんな中、私の論文だけが薄くて目立っていました。教授陣いわく、私はオリジナルだから薄くて当然、私にはレギュレーションの適用はないとのことでした。私は子供の頃から、大人に何か言われると、理由も告げずに私の行動を制限しようとする傲慢さに反発しながらも、大人がそれを求める理由を考えて、理解できたならば甘んじて受け入れており、行動は優等生でした。しかし心はアウトローです。コピペを求めても従わないアウトローにだけオリジナルであることを許してきた日本の教育がいけないのです。
そんなことを考えていると、自力でも通説と同じ結論に到れるロジカルなアウトローか、経験を言語化すれば原稿になるベテランにしか、書籍執筆の資格はないように思えてしまいます。
とはいえ、私が早い段階で本を書く人になったのも、若手時代に先輩たちからチャンスをいただいてきたからです。上から受けた恩は下に返せと弁護士になる前からずっと教えられてきたので、私には後輩にチャンスを与える義務があります。
実務経験がないならば想像力で補う、不安を感じるからこそ手段を選ばずに勝利を追求した結果オリジナルになる、そんな貪欲な人材ばかりだったら私の編集が楽になると思いました。
一つだけ言いたいことは、せめてコピペくらいはできるようになってくれ、ということです。漫然となされたコピペからは本質が欠落することが多々あり、引用者が理解していないとすぐにバレます。コピペっちゅうのは、自力でも同じ結論に到れる人間が、自身の思考過程をなぞるように出典の言い回しを引っ張ってくる作業を言うんだよ。オジリナルは期待しないから、せめて出典を理解してそれを要約すべく頭を使ってコピペしてくれ。それができればコピペ集は読み応えがある整ったキメラになります。キメラだって格好良ければ良いじゃない原稿だもの。
そろそろ気楽な原稿執筆期間が終わり、嫌でたまらない編集作業の時期がやってきます。頑張れ私。