示談という業界用語がありますが、法的には和解契約です。和解契約は互譲を本質としています。互譲というのは、言葉の通り、互いに譲る、ということです。和解契約は契約なので、当事者はこれを守る義務を負います。
私が弁護士になって、一番初めに任された仕事が、刑事事件の示談でした。酔っ払いがAビルに侵入して消火器を盗み出し、隣接するBビルの玄関前で消火器を噴射した、という事案です。Aビルからの消火器の窃盗と、Bビルへの器物損壊の罪に問われていました。酔っ払いは反省しており、被害弁償の意思を示しています。AビルはA法人の、BビルはB法人の所有で、A法人もB法人も被害弁償するならば大事にはしないと言ってくれています。警察も、そういう事情ならば、A法人とB法人から寛大な措置を求めるという宥恕文言が入った示談書をもらえれば微罪処分としてくれると言っています。ところが、A法人もB法人も、示談書に印鑑を押すのは定時取締役会の決議を経てからになると言ってきました。私の主な仕事は、警察に事情を説明して、示談書が揃うまで事件を動かさないようにお願いすることでした。どうということのないお使いなのですが、なにせ初めてのお仕事なので、大変緊張するとともに、A法人に頭を下げB法人に頭を下げ警察に頭を下げる自分を新鮮に感じていました。これが本物の弁護士の仕事だ、教科書にない実務の世界に出られたのだと、妙な感動を覚えながら頭を下げていました。
示談に向けて動くのは加害者側弁護士だけの仕事ではありません。私も被害者代理人弁護士として、加害者から解決金をできるだけ多くいただくべく動くこともあります。私は性犯罪の被害者代理人をしたことはないのですが、とても大変な仕事であることは容易に想像がつきます。時間をかけて被害者に冷静になってもらうとともに、被害者が立ち直るためにはなにが最善かを考え抜きます。示談には応じず、加害者が刑事事件で有罪判決となった後に、民事で損害賠償請求をすることも選択肢になります。しかし、それには、被害事実が公になること、法的な決着までに時間がかかること、というデメリットもあります。時間をかけて被害者に寄り添い、示談が成立すれば一区切りついてまた動き出せるという気持ちになってもらえたら、ようやく示談をします。
示談が成立すれば、それでひとまずは一件落着です。依頼者にに一件落着だと思い込んでもらえなければ、示談をする意味がありません。人生は割り切れないことばかりですが、それでも、どこかで区切りをつけなければ前に進めません。前に進むために区切りをつけることを手伝うことが弁護士の仕事です。だから弁護士は仕事に誇りを抱いています。
示談の中には守秘義務条項が入ることが通常です。被害事実を公にしたくないと、加害者のみならず被害者も考えたからこそ、守秘義務条項を織り込みます。言いふらしたくて仕方がないのに我慢するための守秘義務ではありません。互いに過去を封印するための守秘義務です。前に進むための守秘義務です。だから守秘義務は加害者も被害者も縛ります。
私は、加害者の代理人であっても、被害者の代理人であっても、示談が成立した後に、依頼者が守秘義務を破るようなことがあれば決して許しません。許さないから何をする、ということはないのですが、守秘義務を破った依頼者に対しては厳しい態度を取り、今後一切手助けすることはしません。
守秘義務の内容がどうだ、加害者や被害者の感情がどうだ、真実はどうだ、という話ではないのです。そういうことをすべてひっくるめて、過去を封印して前に進むための守秘義務です。前に進む手助けをしたのに、それを反故にされれば、弁護士の仕事は否定されます。
それだけではありません。示談交渉は弁護士対弁護士で行うことが通常ですが、自分の依頼者の示談破りを許すようなことがあれば、あいつとの示談は信用できないと、今後一切、どの弁護士とも、示談ができなくなります。
だから弁護士にとって、依頼者による示談破りは極刑よりも重い重罪です。
弁護士の立場を離れても、示談破りは許せることではありません。
我々市井の人には調査権限がありません。だからこそ、加害者だと強く疑われる人物を前にしても、疑わしきは罰せずを貫きます。公の場で誰かを加害者認定するなど、絶対にしてはならないことです。裁判で有罪判決が確定した場合のみ、加害者扱いが許されます。それが社会のルールです。
市井の人には誰かを有罪認定することはできませんが、約束をすることはできます。そして、約束をすることしかできません。にもかかわらず、約束を破るようでは、社会の一員たる資格を失うと、私は考えています。だから私は約束を守りますし、約束を破った人間の言葉を信用しません。逆に、裁判で有罪判決が確定するまで、加害者とされる者を加害者として扱うこともしません。
2025年4月現在、世の中には、自分の依頼者による示談破りを軽く考えている弁護士、他人に示談破りを求める弁護士がいるようで、しかも、それが社会からは正義だとして扱われているらしく、弁護士業の根幹が揺らいでいるように私には思えます。