#教育の話
2025年8月25日
大川原化工機冤罪事件について、警視庁、検察幹部が被害者の墓前で謝罪したというニュースが度々流れています。
罪を憎んで人を憎まずと孔子は言ったとされていますが、本当に孔子がそんなことを言ったのか疑問です。孔叢子なる書籍は孔子の死後300年とも400年とも言われる後に書かれたものだからです。
罪を犯すのは人間です。時として被害者の言動や、加害者の動機が罪を軽くすることはあります。上司の命令に従ったという事実は罪を軽くしますが、それでも実行犯が犯罪を実行するのです。
実行犯を裁かなければ罪を裁いたことにはなりません。実行犯が真に道具と評価できるならば、実行犯の認定を一つ上にずらして間接正犯とすれば良い。裁くべきは実行犯であり、実行犯が正犯です。罪を犯した人を憎む、というのが孔子ならぬ私の考えですし、刑法の考え方であると理解しています。
「私が所属する組織の下の者が罪を犯して申し訳ない。私を責められても実行犯ではないから罪については何もわかりませんし、なんなら前任者の部下の罪であり私は全く関与していませんが、それでも偉い私が謝罪にきました。ここは私の顔に免じて許しなさい。」これは謝罪では断じてありません。
私の顧問先の従業員が粗相を働き、顧問先の偉い人が被害者に謝罪に行くことがたまにあります。私はその際には、必ず被害者に寄り添うようにお伝えしています。
個人情報保護法がある時代です。適式な手続を取っていただかなければ加害者の情報を被害者に明かすことができない場合が多々あります。それを説明したうえで、それでも加害者にはどのような処分を科す方針だし、どのような再発防止措置を講じた、ということを必ず説明するようお伝えしています。
多くの被害者が求める一番のものは加害者への処罰、次に再発防止、最後に賠償です。最後は金目でしょ、という言葉は結果論としては間違っていませんが、あまりにも被害者の心情に寄り添わないので、被害者の神経を逆撫でします。
警視庁が歴代幹部の監督責任を問うたなど、ポージングや出世競争の出汁に過ぎません。誰も処分なしの検察、謝罪すらしない裁判所は論外です。
氏名は伏せるにしても、どの末端が何をしたからどのような処分を下した、という具体的な実行行為と処分のリストを作成して、「私が責任をもって被害者を苦しめた悪を処罰しました。悪は排除したので再発はありません。未然に防げず申し訳ございませんでした。」というのが本物の謝罪です。未来に向けた実のある謝罪です。事件は現場で起きてるんだ、というのは本当のことなのです。