2025年10月7日
高市早苗自民党新総裁の誕生によって選択的夫婦別姓を推し進めている方は大層落胆しているそうです。
私には、選択的夫婦別姓推進論者がどうにも理解できません。
元々、夫婦同姓では妻が夫の姓を名乗ることが多いので働く女性の妨げになっている、ということが問題とされていたはずです。
まず、夫婦同姓と男女差別を切り離して考える必要があります。
今週一緒に飲んでいた仲の良い男性弁護士は、結婚によって配偶者の姓となり、現在は旧姓で活動されています。
高市新総裁は、現在、配偶者に高市姓を名乗ってもらっています。配偶者が御高齢なので、働く女性優先のご決断なのでしょう。
私の母は、旧姓が大嫌い(音の響きが嫌いで、それによってからかわれてきたからだそうです)で、結婚すれば旧姓を捨てられると考えていたそうです。
私も、結婚できるならば、柿沼の姓をいつでも捨てます。
少なくとも現代社会において、夫婦同姓は男女差別の問題ではありません。そもそも庶民が姓を名乗ったのは明治からです。戦国大名は、次男以降を他家の婿養子とすることは常套手段でした。西国無双立花宗茂など長男であっても父の親友に請われて婿養子となっています。男女差別を大声で叫ばれても、お、おう、明治、大正、昭和はそうだったのかもね、としか言えません。
2025年10月11日追記
戦国時代は女性は嫁いだ後も、どこどこ出身という趣旨で旧姓ですね。鎌倉時代の話ですが、北条政子は存在せず平政子がいた、ということです。立花宗茂の奥さんが女性戦国武将なので婿入りのイメージが強かったのですが、時代が違えば価値観も異なります。いずれにせよ、日本の歴史は男女差別と姓は関係ないという私の主張を補強しうるものです。
2025年10月23日追記
私が学生時代ですから20世紀末に、韓国の方から、夫婦別姓は男女差別だと熱く語られたことがあります。
当時の韓国は父姓主義といって、夫婦別姓だが子供は父親の姓という制度でした。韓国は男性優位の社会で、女性は結婚しても本当の意味で家には入れず、しかし父親の血を引いた子供ならば女性でも家に入れる、という男女差別が夫婦別姓に現れていると教わりました。なるほどと納得しました。日本の戦国時代も同じ文脈で評価できるかも知れませんね。
その方は、レディーファーストだって、暗殺されそうになった際の盾にするために女性を先に歩かせるのだと話されていました。もっとも、その韓国の方は、冷静に、時代が変われば制度の意味も変わると評価されていました。変質したレディーファーストを放棄する必要はないというお考えでした。
少なくとも私は、現代日本の夫婦同姓が男女差別だとは全く感じません。独身の私は、結婚できるならばなんの抵抗もなく柿沼の姓を捨てるからです。私は長男ですが、父は四男ですから、柿沼を継ぐという意識はありません。そんなことより孫の顔を見せろと昔は言われていたのに、今は触れてはいけない話題になってしまいました。
選択的夫婦別姓の一番のデメリットは、親子別姓、兄弟別姓の登場です。
親子別姓でも困っていない子がいるという反論がなされるところですが、問題は、両親と同じ姓を名乗りたい子供まで親子別姓を強いられることです。
私は経済学出身ですから、誰かのために誰かを犠牲する現状変更を許しません。この考え方をパレート効率性といいます。
選択的夫婦別姓を求める目的が通称使用の困難にあるならば、その目的を達成するためにもっとも緩やかな手段を採るべきということは、経済学であればパレート効率性から、法学であれば憲法におけるより制限的でない他に採りうる手段の基準から、考え方の基本です。それがわからない弁護士が多いことに、強い危機感を覚えています。
現状の夫婦同姓が必ずどちらかに通称使用の負担を強いており、通称使用を容易にすることは困難であるというならば、福沢諭吉の時代から存在している夫婦創姓論の出番です。
夫婦創姓論の一番のメリットは、望めば夫婦どちらかの旧姓にもできることです。現状維持に対応できます。
また、複合姓を創出することも可能です。ミドルネームも使えるようにすれば、佐藤・山田・花子が許容され、旧姓山田花子さんは通称山田花子を使いやすくなるでしょう。
私には複合姓に対応した夫婦創姓論が有力な選択肢とならないことが不思議でなりません。
おそらく、選択的夫婦別姓推進論者の本音は、配偶者と同じ姓になりたくない、ということなのでしょう。
その価値観を否定しませんし、戦国時代はその通りだったのですが、ならばなぜ結婚するのか、結婚とは何なのか、という深遠な議論をすべき問題です。
結婚はしない、が、指定した者を相続において優遇するパートナー制度を創設すべき、という議論もなしうるところです。同性婚への一つの解決策にもなります。
とはいえ、私は柿沼さんちの彰くんで育ち、私が悪さをすれば親に迷惑がかかりました。個人が家を背負うことで自律するという価値観は、古臭くはあっても守るべき価値があると私は考えています。
貴方が配偶者と同じ姓になりたくないと考えることは勝手だが、それを子供が両親と同じ姓でいたいという感情を抱く可能性になぜ優先できるの?というのが私の一番の疑問です。選択的夫婦別姓推進論者には優しさがないと私は評価しています。選択的夫婦別姓において子供に選択権はありません。それが問題です。
まとめると、私は選択的夫婦別姓の反対論者として次のように考えています。
・選択的夫婦別姓の目的が通称の不便の改善にあるならばそれを解消すれば良い。改善困難ならば夫婦創姓として複合姓導入を検討すべき
・選択的夫婦別姓の目的が配偶者と異なる姓を名乗りたい感情にあるならば、それが他人の感情を制限しない方法で実現しなければならない
昨日、あるやんごとなき方が、選択的夫婦別姓反対論者は天皇制の崩壊を恐れていると主張していました。責任ある立場の方がこのような妄想を垂れ流すことに私は恐怖しました。
このような相手とは議論ができません。レッテルを貼られた側は、貴方の中ではそうなんだね、として、相手にしなくなります。仮に私がそのやんごとなき方と対等な地位にあっても、呆れて相手にしません。その結果、推進論者がギャーギャー騒ぐ大声ばかりが聞こえるようになりますが、サイレントマジョリティは大声の実現を静かに阻止します。良い時代になりました。